一柳 直敬(ひとつやなぎ なおよし)は、江戸時代の旗本。旗本寄合席一柳家(播磨高木陣屋5000石)の当主。能書家としても知られた。
経歴
一柳直郷の三男として生まれるが、兄2人が夭折したため家督を継ぐ。篤学の人であり、能書家として知られたという。
従五位下近江守に叙任された。文政10年(1827年)時点では甲府勤番支配を務めている(相役は板倉勝昇)
文政12年(1829年)、甲斐国田中陣屋(現在の山梨県山梨市一町田中、田安家の陣屋)に日吉神社神主が撰した「節婦之碑」の碑文を書した。この碑は享保13年(1728年)の日川の洪水の際、老いた姑を背負って避難させ、次いで寝たきりの夫を背負って避難しようとして濁流に流された「栗」という女性を顕彰するものである。この石碑は1907年(明治40年)の大水害で流されてしまったが、1930年(昭和5年)に山梨県女子師範学校校長久米卯之彦が「女子教育の素材」として碑文の原文を模して山梨高等女学校(現在の山梨県立山梨高等学校)に建てたものが現存している。
昭和初期に一柳一族の事績をまとめた一柳貞吉『一柳家史紀要』によれば、「臣下を薫陶し、領地を開拓し、水利を治する」などの功績があったという。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第六百三
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)
- 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192151。
- 藤井明広「文政期における駿府目付の職務実態」『立正大学文学部論叢』第142号、2019年。 NAID 120007032106。



